ハワイ留学生の生活ブログ

ハワイ留学生の生活ブログ。

ハワイへ留学していた女子大学生によるブログ。

アデン・アラビア~20歳が人生で一番美しい時だと思うなら~

 

 

今回は、何度かブログ内で紹介している小説、「深夜特急」の中でも触れられている、

ポール・二ザン著の「アデン・アラビア」を読んだ感想となっています。

 

 

 ↓深夜特急についての記事はこちら!

girla.hatenablog.jp

 

 

この小説の表向きのテーマは「アラビアへの自分探しの旅」ですが、

その背景には社会批判と深い自己洞察があり、

 「20歳が人生で一番美しい時だなんて誰にも言わせない」という、

 切ないようであまりで大胆な(?)小説の出だしの一文が持つ意味が、

 読み進めるにつれて明らかになっていきます。

 

P.S. 思いつくままに文章を打ち込んだので、

 これが手記であれば間違いなく殴り書きと言われるであろうまとめ方ですが、

 わざわざ編集して投稿するような内容でもないと思ったのでそのまま載せました。

 読みづらさがあるかと思いますが、ご容赦ください。

 

 

要約

機械的に、そして権力や名声に支配されて生きる人間に疑問を感じて旅に出る。

旅の先には「人間」らしい生活が待っているのだと期待しながら・・・

 

しかし期待もむなしく、

そこで見たのはフランスと同じく「死にながら働く」人々であった。

むしろ彼らは限りなく無に近い生き方をしていた。

自然や機械を所有することもなく、死、そして来世での生を所望するために生きる。

主人公もそのような環境下で怠惰を経験する。

自分も内的世界の、可能性としてしか存在しない事項について思いを馳せる、

「詩的」な人間になってしまうのだろうか。

また、周りの人間や事物に興味を持ちえない、

「無」の人間になってしまうのだろうか。

アデンへの旅の末、主人公はフランスへ帰る。

そう、自分はフランスの農家だ。フランスー自分の愛する人がいる場所。

一つの場所に住み続けることは、

自身の人間性と真に対峙するという意味で忍耐強くあらなければならない。

逆に言えば、本当の旅行者とは人間としてのある種の力が欠如している証拠である。

しかしフランスには、果たされなかった人間らしさや自身の正当化のために、

「知性」を働かせる、または、権力や資本といった、

極めて抽象的な概念を振りかざして「人間らしさ」と勘違いしている人間が大勢いる。

どちらの生き方にも殺されてはならない。闘わなければならない。

その瞬間、人間、事物を捉える、真に世界を見るとともに、

一切のもくろみなく創造的活動に励む、「人間らしさ」を失ってはならない。

そしてそれらを忘れないよう常に闘わなければならないのだ。

 

 

感想

まず今の自分が悩んでいる事を、時代も国も違う人が同じように悩んでいた、

っていう事自体が学び。結局、人間の本質的な部分は変わらないのかもしれないし、

本質的な共通性があるからこそ、読書には価値があるんだと思う。

ただ、この本では、知性のひけらかし的な読書や知識を否定している。

そのような動機で本を読むのは「人間らしい」活動ではなく、

優位性を求める所有欲求のあらわれであると。

間違いではない。私も知識で優位に立ちたいという欲望があるから

読書している節があるけど、そういう読み方は単なる数稼ぎでしかない。

きっと本当に本が読みたい時は、「読むのが面倒くさい」なんて思わないんだろうな。

 

次に、この本で出てくる機械的な人々について。

背景は違えどそのまま日本社会に当てはまるのではといっても過言ではないぐらい、

今の社会そして自分の状況と一致していた。内的世界の否定は意外だったけれど。

「思考は対象を選ばない」とね。確かに。

私は自由な思考を通して創造的活動をしていると感じているけれど、

思考にとっては思考さえできれば帰結なんて何でも良いのだ。

この本の中で肯定的に描かれている人物が何人かいる。

まず、船長。自分をよく見せようなんていささかなりとも考えない、

ただ目の前の波に集中する。その点で主人公は船長にリスペクトを示す。

しかし、それ以外の時には彼もまた退屈そうなのである。

次に、バッハやレーニン

こちらも、創造的行動をなしえながら自分を誇示する目的がない点で肯定されている。

何かに突き動かされるような生き方、とでも言えようか。

最後に「無」に対する考察。

主人公は何かを得るために旅に出て、

結局環境が違えど何も変わらないということを学び帰ってくる。

そして人間らしさ、すなわちbeing present と創造的活動、のために闘う決意をする。

私も旅に答えを求めても何も変わらない。自分自身が変わらなければ。

という点では同意する。そして人間らしさが創造的活動に基づいていることも。

ただ私は今の時点で、この「無」の状態に満足しているのだと思う。

彼にとってはわたしも死んでいる人間の一人なのかもしれない。

はたまた、be presentと創造的活動という特性が備わっていれば、

いくら怠惰でもそれは「人間的」なのかもしれない。

この瞬間をこの目で見ること、創造を形にすること。

そして、人気や名声、尊敬といった動機に基づく行動は全て排除していいのだ、

という主張。「自分のやりたい事だけやる」というと利己的に聞こえるけれど、

案外それが「純粋な創造性」なのかもしれない。いいね稼ぎや機嫌取り、

他人の労働で楽して生きよう、なんて無駄。自分は自分のやりたいようにやるし、

他人と同じかそれ以上に働く。

でもそれは出来る限り、自分の創造性に基づくものであってほしいと思う。

 

「20歳が人生で一番美しい時だなんて誰にも言わせない」という出だしの一文は、

人間失格の「恥の多い人生を送ってきました」と同じぐらい、

一文としての価値がある文であると思う。が、沢木耕太郎は、

アデンアラビアは最初の一文以外は面白くない、

すなわちアデンの何も捉えられてはない、観察眼が乏しい、

といった趣旨の事を書いていた。その先入観もあり私自身も、

著者(主人公)の興味の矛先は常に自分の内面にあるため、

「アデン」という土地を選ぶ必要性があったのか・・・と考えてしまった。

あと、文章の表現法が滝沢カ〇ンさんに似ていると感じるのは私だけだろうか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ