ハワイ留学生の生活ブログ

ハワイ留学生の生活ブログ。

ハワイへ留学していた女子大学生によるブログ。

沢木耕太郎からカミュを知る。〜「ペスト」抗えない不条理・人間としての正とは〜

今まで読んだ本の中で一番心に残っているものは?

と聞かれて真っ先に思い浮かぶのが「日本人が知らない世界の歩き方」、

そして「深夜特急」。

  

 

↓この記事にも書いてます

girla.hatenablog.jp

 

 

深夜特急」と出会ってから、私は沢木さんのファン、

(というと知識の薄さゆえにファンの方々に失礼かもしれないですが)、

それでも普段一人の作家にあまり肩入れしない私にとっては、

好きな作家と断言できる方の一人です。

 

そんな沢木さんが経済学部出身である事は、

同じく経済学部に所属する私に非常に大きな共通点であり、加えて、

経済学部にも関わらずアルベール・カミュについての考察を卒業論文として提出した、

となれば、卒業論文制作真っ只中の私が沢木さんの卒論に興味を持つのは、

もはや当然といえば当然なわけで。

なぜカミュ卒業論文の題材に選んだのか・・・

どのようにして書き得たのか・・・

いやもはや、卒業論文を抜きにしても大学時代の沢木さんを

そこまで惹きつけたカミュという人物を知ってみたいと思った。

というわけで、カミュという作家単体としては

私の人生に交じり得ないような存在だったわけですが、

沢木さんのおかげでカミュという偉大な作家を読む機会と巡りあえました。

題名には仰々しくカミュを知るなんて書きましたが、

感想として殴り書きしたものを投稿させていただきます、

メモ程度ではありますがご容赦ください。

 

 

 

人間が抗えない何かに直面した事のある人間は強い。

それをきっと「不条理」を経験した人間と呼ぶのだろう。

人は毎日刻一刻と死に向かっているし、愛する者は近寄ってきては又去って行くし、

昨日正だった事が今日は悪になる。その事実は何人も避けられず、

そして避けられないという事を理解していなければならない。

その点において人類は皆、

今この瞬間においても"ペスト"の恐怖に晒されているのかもしれない。

ペストの感染によって私達が命の危険に晒されるのでは無い。

ペストの流行によって私達が人間の無力であるように思われるのでは無い。

私達は元来"ペスト"の恐怖と隣り合って生きていて、それにも関わらず、

私達はあたかも明日が必ず来ると信じて疑わずに生きている。

朝目が覚めれば昨日とほぼ変わらない姿の自分がいる。

それは、そう信じているというよりも、

疑問さえ抱かない真実であるかのように思われる。

けれど"ペスト"は確かにそこに存在している。

そして、何かを成し遂げるにはー例え誰かを救う為であってもー誰かを犠牲にしうる。

その点で誰でも"殺人者"になり得るのである。

それを知った上でもなお、自分の善のために行動できるのか。

例え悪者と呼ばれようとも、自分の行動は人々にとって社会にとって有益だと

(ちょっと言葉のニュアンスは違うけど)信じられるのか。

これが、誰も犠牲にしない代わりに誰も救わない事を選んだタルーと、

誰かが犠牲になったとしても誰かを救う事を選んだリウーの違いであろう。

タルーは聖人になることを望み、リウーは人間であることを望んだ。

(これは解説を読まなければ気づかなかった事だが)

爺さんはタルーの、グランはリウーの投影だという。

聖人の究極の理想像をひたすら習慣の中に生きる爺さんに

(これは仏教の思想にも近いものがあるのでは)、人間の究極の理想像を

個人的な生産活動に勤しむリウーに見出したという事であろうか。

しかし爺さんとグランに共通しうるのは、

不条理への一種の諦め、回避的姿勢である。

一方でタルーとリウーは互いに答えの出ない問いの中に苦しみながらも、

その不条理と向き合う方法を模索した。

最後に、カミュの「ペスト」では誰一人として完全なる悪人とは描かれていない、

それどころか、社会的に悪とされる行動をとった者でさえ、

どうすれば赦しを与える事ができるのか、という視点で語られるのである。

誰一人として完全悪という人間はいない。

それは、正が悪になり悪が正になる無常さ、価値基準の無限性、

人間の持つ共感力の強さ、など何点かの理由を付けて考える事ができるが・・・

結局、何かが常に、絶対的に正しく、何かが間違っている事は無い。

正誤善悪損得よりも何よりも、誠実・正直である事(タルーより)、

人として心が動かされる事を大事にする事(リウーより)、

それが人を動かし社会を動かし世界をより良い方向へ導くのだ、という事を学ぶ。

人間としてどうあるべきか、という問いを立ててはいけないと自負しているが、

あえて立てるとするならば、万人を救うことはできない、

そして時には人間らしさを放棄する必要があると理解しながら、

人間的なリウーを目指さずにはいられない。 

不条理は、とても辛い。

しかし、不条理を受け入れられないと、自分をさらに辛くさせる。

不条理を受け入れた上で、自分が何に価値を見出すのか。

そして、そこにもやはり良し悪しは存在しない、と私は考える。

例えば、「ペスト」ではランべールという人物が、

集団内の規律や責任よりも個人的利益に基づいて行動しようとし、

私利私欲を優先することへの疑問が投げかけられる。

最終的にはそのような行動を回避するのだが、たとえそうしていたとしても、

マジョリティからは非難されたかもしれないが、

誰かにとっては、憧れの対象に、勇気の象徴に、実現しえなかった夢に、

なりうるのである。

そう、何事も誰かにとっては正でまた違う誰かにとっては悪なのである。

どう足掻いても全員にとって正である事は不可能なのである。

ついで程度に、ペストに対するキリスト教の伝統的思想と近代科学的思想の対比も、

時代背景を表していると感じた。浅はかではあるけれど。

 

とにかく、この一冊の中に幾つもの人間の真理が織り交ぜられていた。

そして人物の内面、それはただの感情の移ろいではなく思考と信条の変化、

をあまりに鮮明にイメージさせられた。そして何より、

今まで沢木耕太郎はこういった不条理を認識していても追求する人間ではない、

むしろその対極にいる人間だと思っていた。

けれどカミュを踏まえて深夜特急が書かれたと思うと、

それが尚更尊い?(うーんぴったりな言葉が思いつかない!語彙力!)気がしてくる。

あーこれから卒業論文だけれど、きっと書ける気がする。

そしてここのカフェの音楽が素敵だなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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