ハワイ留学生の生活ブログ

ハワイ留学生の生活ブログ。

ハワイへ留学していた女子大学生によるブログ。

「頑張る」ということ~頑張らない頑張り方~

 f:id:girla:20210307025344j:plain

 

 

 

~頑張ることは、必要か。~

 私はよく、「自分は今できるだけのことをやれているのか」

「時間を無駄にしているんじゃないか」「もっと頑張れるんじゃないか」

と、自分に何か足りないような気持ちになって頑張って、

結果的に疲れてしまう事があります(笑)

頑張ろうと思うと極端にプレッシャーを感じたり、

常に「何かをやらないといけない」という余裕が無い状態になったり、

 まあとにかく頭が疲れてしまうので、

(考えたくないのに考えが止まらない、恋かな?笑)

 「もうこの人生、二度と頑張らない」と思ってはいるのですが。

 やっぱり。やっぱり。周りが頑張っていると影響を受けるわけで。

 特に自分の体調が良いと調子に乗って、

 

「あれ、これ頑張れるんじゃないか」なんて考え始めて、

 頑張って、結局疲れて、頑張ろうとしたことを後悔するわけです(笑)

 

そもそも、「頑張る」って必要なことなのでしょうか?

確かに、生活を最低限維持するためには頑張らなければいけない。

けれど、それが満たされてもなお頑張る理由とは何なのでしょう。

だって、地球のどこかでは、毎日食べて寝て歌って踊って、

頑張らずに幸せに生きている人もいるんです。

「頑張る」「頑張らない」を明確に区別できるわけではないし、

どちらかを選ばなければいけないわけではないのですが、

なぜ私たちはそもそも、「頑張らなくてもいい」のに「頑張る」のでしょうか。

 

それは私たちが、「頑張らずにはいられない存在」だからかもしれません。

「○○がやりたい!」「○○を達成したい!」というような気持ちは、

脳が思考の対象や快楽を求めているからなわけで、結局のところ、

脳がそれらを求めるのは本能的であり、身体が健全な証拠だともいえます。

きっと、地球のどこかの頑張っていない人々も、

何かをやりたい、といった思考や感情は持ち合わせているはずで、

しかし、頑張るというカルチャー(あるいは個人の性格)が無いため、

他の欲求として昇華されているのではないでしょうか。

一方、日本のような「頑張る」カルチャーの中にいる人々は、

そのような思考や欲求を「頑張る」に結び付けやすいといえます。

 

~2つの頑張り方 / 考える自己と実行する自己~

つまるところ、脳が「頑張る」対象を必要としているのです。

では、どう頑張るか。

私は「頑張る」には2つのパターンがあると思っていて、

1つは、ゴールを先に設定し、逆算された行動の遂行を「頑張る」パターン。

もう1つは、結果はどうであれ、それを頑張りたいから「頑張る」パターン。

前者は「目標の達成」に、後者は「行動の動機」に重きを置いています。

(これを読んでいるあなたはどちらのタイプですか???)

受験勉強や部活動などに励んできた私にとっては前者のほうが馴染み深く、

というか、学校で教育を受けた人なら誰しもが、

「計画的に勉強しなさい」「目標に向かってコツコツ努力しなさい」

といったセリフを一度は耳にしたことがあるのではないのでしょうか。

 

もちろん、前者で目標を達成した瞬間の達成感や、

頑張った過程からくる自信は紛れもないものです。

と同時に、途中で挫折してしまった経験や、

目標を達成した後の虚無感を味わったことがある人も多いはずです。

その理由は、

目標を立てる時の自分」と「実際に行動する(した)時の自分」が、

別であることに起因しているように思われます。

 

以前大学でゼミの教授に勧められて読んだ、

「意思決定のマネジメント」という本があったのですが、

その中で、「考える自己」と「実行する自己」

といった概念が紹介されていました。

「考える自己」と「実行する自己」は異なるため、

どちらの側面も考慮して計画を立てなければならない、とのことで、

あんなにワクワクして立てた目標も、いざ行動するとなると全然ワクワクしないのは、

「目標を考える自分」の感情と「行動する自分」の感情が根本的に異なるから。

そして、この「行動する自分」に対しての配慮が欠けていると、

毎日がただタスクをこなすだけの苦しいものになってしまうのです。

(気になる方はどうぞ↓ 経営倫理についての本ですが、

  日常的な意思決定への理解を深めることができる面白い本です。)

 

 目標を立てた時の感情をずっと意識していられるタイプの人は(たまに見かけます)、

1つ目のパターン、目標に向かって計画的に頑張ることができるんだと思います。

一方で、「これが好き」「これが食べたい」など、

その瞬間の感情の尺度が大きい人ほど行動するための動機が必要で、

むしろ動機が無ければ、いくら自分の立てた目標に対する行動だとしても、

行動する自分の感情を無視し続けることになり、心身にとってストレスになり得ます。

逆に、行動の動機すなわち、好奇心や楽しさなどがあれば、

頑張ろうとせずとも、そして目標達成が伴わずとも、

自然に頑張りつづけられると思うんです。

 

「好きこそものの上手なれ」などとも言いますが、

例えば、私は大学で経営学科を専攻しているのですが、

経営が好きで好きでたまらない人と、あまり興味が無い私、

が、同じように成長できるわけがないんです。

だって何かが好きな人は、好きだから勉強したいと思うし、

好きだから続けたいと思う。

そして、彼らには大して頑張っている自覚はない。

一方の私は、何かしらの目標を設定して自分を奮い立たせなければ、

頑張る事ができなかったんです。

行動する自分の感情を無視してまで目標を達成する理由があるのか。

一度しかない人生の時間を割くだけの価値が、本当にあるのか。

とまあ、講義を受けながらこんな事を思っていました。

 

~頑張らなくても、頑張れる~

結論、私たちは欲深い生き物で、

その欲求の一部分として「頑張る」ことが不可避的に存在する。

「頑張る」というと「目標に対して計画を立てて実行する」方法が一般的だが、

「目標を立てる自己」と「実行する自己」は異なるため、

目標への欲求や快楽ばかりが先行すると、

「実行する自分」との感情のすれ違いが生まれ、

「頑張る」ことがストレスになりうる。

「実行する自分」を考慮に入れてあげれば、

すなわち「行動の動機」「好き/やりたい/楽しい」が見つけられれば、

自然に「頑張る」ことができるのではないか、

頑張らなくても頑張れるのではないか。

 

もしあなたが、頑張ることに疲れたり、何も頑張りたくないと思っているなら、

目標や結果、計画的なスケジュールは一旦置いておいて、

行動する自分がワクワクできるかどうか」を基準に、

何かに取り組んでみるのも一つの方法だと思います。

 

 

 

P.S. 自分が一番、「書いた方がいいことを計画的に書く」よりも、

「書きたいことを書く」ほうが合っているなあ、と、

この記事を書いていて改めて感じました(^^;)

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

ヘルシーを選ぶように、ポジティブを選ぶ。

f:id:girla:20210226125938j:plain

 

 

 

ヘルシーである事と、ポジティブである事。

私は、ポジティブである事って、ヘルシーである事と、

そう変わらないのではないかと最近思います。

それは、ポジティブもヘルシーも良いに決まってる!ということでは全くなく、

ポジティブもヘルシーも自由に選択する権利があるし、

あえて選択しない権利もあるということ。

そして、ヘルシーもポジティブも意識、というか思考の問題だという意味で、

似ているなと感じます。

 

一般的に、ジャンクフードを食べたりお酒をたくさん飲んだりするよりも、

 野菜を積極的に摂ったり、定期的に運動を取り入れたり、といった、 

"ヘルシー"な生活を送った方がいいとされています。

 それは、健康のため、毎日のパフォーマンスのため、セルフイメージのため、

などの様々な理由でいいと言われていると思うのですが、

じゃあ、24時間365日ヘルシーな生活ができるか、といったらそうではない。

 

もちろん、私もヘルシーでいる事に越したことはないと思っています。

ただ、ヘルシーに固執するあまり、

逆に体が不健康になったり、ストレスを感じたりしたら本末転倒です。

私たちは人間ですから、

いくらヘルシーを目指していても、"unhealthy(不健康)"が必要な時がある。

ストレスが溜まった時はジャンクフードを食べたいし、

疲れている日は一日中部屋でゴロゴロしていたい。

自分が必要なら、そして自分が幸せなら、

unhealthyだって全然選んでいいんだと思います。

 

ポジティブとネガティブもそういうものだと思います。

毎日を快適に過ごすため。仕事を効率的に行うため。

良い人間関係を築くため。自分の人生に満足するため。

それらを達成したいのならば、

自分、そして周りの人・環境・出来事の良い部分に着目し、

それらに感謝することに越したことはない。

これを私は"ポジティブ"な思考だと考えています。

けれど私たちは、誰もが皆おなじぐらい楽観的なわけではないし、

楽観的な人であっても常にポジティブでいられるわけではありません。

皆が皆、毎日様々な感情を抱きながら生きています。

だから、ネガティブな感情を否定する必要はないわけで。

悲しい時はうんと泣いていいし、怒りたい時はわめけばいいし、

悩みたい時は死ぬほど悩めばいいし、病みたい時はどん底まで病めばいい。

 

ネガティブを責めずに、ポジティブを選択する

でも、ネガティブな感情を解放し、その感情と向き合った後、

ずっとネガティブな思考のままでいるかどうかは、

自分で ”選択できる” と思うのです。

ネガティブでいて、どんなにあなたが辛くても、

真の意味で誰かが助けてくれるわけではありません。

ネガティブな思考を続けたままでは、

きっとどのような人・環境・出来事に対してもネガティブの視点を持つだろうし、

その分、ネガティブな感情を感じることも多くなるはずです。

 

だからこそ、もしネガティブな自分でいて幸せではないのなら、

ポジティブな思考を選ぶ必要があると思います。

それは別に、今この瞬間からハッピーにならなければいけない、という話ではなく、

"自分の思考パターンとポジティブな思考法を知っていること"

に過ぎないのかもしれません。

つまり、ポジティブを選ぶということは、

今この瞬間から「あー嬉しい!」「私はポジティブだ!」というような

ポジティブな感情を感じなければならないのではなく、

ポジティブな思考と比べて、自分の思考にはどんな癖があるのか、

と認識することだと思います。

 

"知っている" "認識している"ということは、それだけで大きな力を持ちます。

例えば、体調不良の時にその原因が分かっているのといないのでは、

同じぐらい体調が悪かったとしても、心の安定度は異なると思うんです。

また、あなたが面接を受ける時に、

質問内容を事前に分かっているのと、分からないまま受けるのでは、

緊張の度合いや、自分の考えをどの程度伝えられるかが変わってくると思います。

 

だから、ネガティブな感情そしてその思考に陥って、

自分や他人を責めたり、不安・辛い・苦しいと感じても、

「どうして私はいつもこうなんだろう。」

「自分は一生幸せになれない。」

とネガティブ思考がただ堂々巡りするのではなく、

その原因が自分の思考パターンの一部分にあり、

それ以外の考え方や捉え方も存在する、むしろ、存在して当然だと知っていることで、

わたしたちの心は安定する、少なくとも「絶望」では無くなるはずだし、

そして、じゃあどうすればいいか、と次の一手が打ちやすくなると思います。

 

○○な自分に縛られないで、選択していく力

少し話は逸れましたが、"ポジティブな思考"とは"個人が選ぶ"ものであり、

必ずしもポジティブでいなきゃいけないわけではないですし、

常にポジティブで居ることには逆にデメリットもあると思うんです。

でも、ポジティブでいること=自分を受け入れること、周りに感謝すること、

失敗からも何かしらの学びを得る事...etc

それらがあなたにとって、総合的に考えて幸せだと感じるならば、

その思考を選んでいけると思うし、

自分のできる範囲で意識して、少しずつ実行できていくと思うんです。 

  

最初からヘルシーな食生活だけを好んでいる人ってごく少数なはずで、

ほとんどの人は何らかの目的や理想像があって、ヘルシーな食生活を選んでいる。

そして、選ぶからこそ実際に身体がヘルシーになって、

そこで幸せを感じるからこそ、ヘルシーがもっと好きになる。

ポジティブな思考からポジティブな行動が生まれて、

その行動を実践するから、実際に幸せだったりポジティブな感情が生まれる。

そしてポジティブな感情が生まれるから、ポジティブがもっと好きになる。

でも、最初からポジティブな感情になろうと一生懸命になる必要もなく、

 

「私はいつもこう考えるけど、こういうポジティブな考えもあるんだよなあ」

「私はネガティブで生きてきたけど、そのポジティブな考えも選んでいいんだよなあ」

「ネガティブになりたい時もあれば、ポジティブを選んで幸せになる時もあるんだよなあ」

 

と、ただ意識しているだけでよい。 

 

ヘルシー/アンヘルシー、ポジティブ/ネガティブ、と、一概に区別はできないし、

私たちは一人一人異なる心身を持っているからこそ、

そういうレッテルを貼る事自体がナンセンスなのかな、と思ったりもします。

ただあえて言うならば、

こういう概念に縛られたり、自分を決めつけたりするよりも、

自分で柔軟に選択していく姿勢が必要だと思ってこの記事を書いています。

 

 

ここまでつらつらと書いてきましたが、

あくまで一個人の考えなのでこれが全員にとって正しいと言えるわけではないです。

ただ、どこかの誰かにとって、何か一部分でも参考になれば嬉しい限りです。

 

 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

アデン・アラビア~20歳が人生で一番美しい時だと思うなら~

 

 

今回は、何度かブログ内で紹介している小説、「深夜特急」の中でも触れられている、

ポール・二ザン著の「アデン・アラビア」を読んだ感想となっています。

 

 

 ↓深夜特急についての記事はこちら!

girla.hatenablog.jp

 

 

この小説の表向きのテーマは「アラビアへの自分探しの旅」ですが、

その背景には社会批判と深い自己洞察があり、

 「20歳が人生で一番美しい時だなんて誰にも言わせない」という、

 切ないようであまりで大胆な(?)小説の出だしの一文が持つ意味が、

 読み進めるにつれて明らかになっていきます。

 

P.S. 思いつくままに文章を打ち込んだので、

 これが手記であれば間違いなく殴り書きと言われるであろうまとめ方ですが、

 わざわざ編集して投稿するような内容でもないと思ったのでそのまま載せました。

 読みづらさがあるかと思いますが、ご容赦ください。

 

 

要約

機械的に、そして権力や名声に支配されて生きる人間に疑問を感じて旅に出る。

旅の先には「人間」らしい生活が待っているのだと期待しながら・・・

 

しかし期待もむなしく、

そこで見たのはフランスと同じく「死にながら働く」人々であった。

むしろ彼らは限りなく無に近い生き方をしていた。

自然や機械を所有することもなく、死、そして来世での生を所望するために生きる。

主人公もそのような環境下で怠惰を経験する。

自分も内的世界の、可能性としてしか存在しない事項について思いを馳せる、

「詩的」な人間になってしまうのだろうか。

また、周りの人間や事物に興味を持ちえない、

「無」の人間になってしまうのだろうか。

アデンへの旅の末、主人公はフランスへ帰る。

そう、自分はフランスの農家だ。フランスー自分の愛する人がいる場所。

一つの場所に住み続けることは、

自身の人間性と真に対峙するという意味で忍耐強くあらなければならない。

逆に言えば、本当の旅行者とは人間としてのある種の力が欠如している証拠である。

しかしフランスには、果たされなかった人間らしさや自身の正当化のために、

「知性」を働かせる、または、権力や資本といった、

極めて抽象的な概念を振りかざして「人間らしさ」と勘違いしている人間が大勢いる。

どちらの生き方にも殺されてはならない。闘わなければならない。

その瞬間、人間、事物を捉える、真に世界を見るとともに、

一切のもくろみなく創造的活動に励む、「人間らしさ」を失ってはならない。

そしてそれらを忘れないよう常に闘わなければならないのだ。

 

 

感想

まず今の自分が悩んでいる事を、時代も国も違う人が同じように悩んでいた、

っていう事自体が学び。結局、人間の本質的な部分は変わらないのかもしれないし、

本質的な共通性があるからこそ、読書には価値があるんだと思う。

ただ、この本では、知性のひけらかし的な読書や知識を否定している。

そのような動機で本を読むのは「人間らしい」活動ではなく、

優位性を求める所有欲求のあらわれであると。

間違いではない。私も知識で優位に立ちたいという欲望があるから

読書している節があるけど、そういう読み方は単なる数稼ぎでしかない。

きっと本当に本が読みたい時は、「読むのが面倒くさい」なんて思わないんだろうな。

 

次に、この本で出てくる機械的な人々について。

背景は違えどそのまま日本社会に当てはまるのではといっても過言ではないぐらい、

今の社会そして自分の状況と一致していた。内的世界の否定は意外だったけれど。

「思考は対象を選ばない」とね。確かに。

私は自由な思考を通して創造的活動をしていると感じているけれど、

思考にとっては思考さえできれば帰結なんて何でも良いのだ。

この本の中で肯定的に描かれている人物が何人かいる。

まず、船長。自分をよく見せようなんていささかなりとも考えない、

ただ目の前の波に集中する。その点で主人公は船長にリスペクトを示す。

しかし、それ以外の時には彼もまた退屈そうなのである。

次に、バッハやレーニン

こちらも、創造的行動をなしえながら自分を誇示する目的がない点で肯定されている。

何かに突き動かされるような生き方、とでも言えようか。

最後に「無」に対する考察。

主人公は何かを得るために旅に出て、

結局環境が違えど何も変わらないということを学び帰ってくる。

そして人間らしさ、すなわちbeing present と創造的活動、のために闘う決意をする。

私も旅に答えを求めても何も変わらない。自分自身が変わらなければ。

という点では同意する。そして人間らしさが創造的活動に基づいていることも。

ただ私は今の時点で、この「無」の状態に満足しているのだと思う。

彼にとってはわたしも死んでいる人間の一人なのかもしれない。

はたまた、be presentと創造的活動という特性が備わっていれば、

いくら怠惰でもそれは「人間的」なのかもしれない。

この瞬間をこの目で見ること、創造を形にすること。

そして、人気や名声、尊敬といった動機に基づく行動は全て排除していいのだ、

という主張。「自分のやりたい事だけやる」というと利己的に聞こえるけれど、

案外それが「純粋な創造性」なのかもしれない。いいね稼ぎや機嫌取り、

他人の労働で楽して生きよう、なんて無駄。自分は自分のやりたいようにやるし、

他人と同じかそれ以上に働く。

でもそれは出来る限り、自分の創造性に基づくものであってほしいと思う。

 

「20歳が人生で一番美しい時だなんて誰にも言わせない」という出だしの一文は、

人間失格の「恥の多い人生を送ってきました」と同じぐらい、

一文としての価値がある文であると思う。が、沢木耕太郎は、

アデンアラビアは最初の一文以外は面白くない、

すなわちアデンの何も捉えられてはない、観察眼が乏しい、

といった趣旨の事を書いていた。その先入観もあり私自身も、

著者(主人公)の興味の矛先は常に自分の内面にあるため、

「アデン」という土地を選ぶ必要性があったのか・・・と考えてしまった。

あと、文章の表現法が滝沢カ〇ンさんに似ていると感じるのは私だけだろうか・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

恋愛が楽しいと言ったのは誰?~自分を信じさせてくれるものは何か~

 f:id:girla:20210219201306j:plain

 

 

昔は恋愛するのがあんなに楽しかったはずなのに、

気づけば最近は「恋愛って辛いなあ」に変わっていました。

それでも、恋愛を通して少しずつマインドが成長してきていると感じます。

というわけで今回は、

恋愛について考えたことを、つらつらと書いていきたいと思います。

 

 

突然ですが。これを読んでくださっている皆さんは、

恋愛」 といわれて何を感じ、何を考えますか?

 

幸せ、心配、嫉妬、安心、悩み、憧れ、興奮・・・

 

人によって恋愛に抱くイメージは千差万別だと思いますが、

「幸せ」「楽しい」などポジティブなイメージを挙げられる方は、

一体どのぐらいいるのでしょうか。

 

私は昔、恋愛するのが大好きでした。

それは、「何かを追う熱量と手に入れた時の興奮」が好きだったからです。

今思うと、当時の恋愛では相手がただの「対象」として存在していて、

ちゃんと「人」として見ることができていなかったんだなと、

若かったとはいえ自分を恥ずかしく思いますが、

とにかく、その頃の自分は恋愛=楽しい、excitingなものだと思っていました。

きっとそこには、「頑張れば何でもできる」「私はきっと愛される」という、

疑いようのない自信が心の根底にあったんだと思います。

 

人はこういう「疑いようのない自信」を自己肯定感と呼ぶのかもしれません。

そうだとしたら自己肯定感は、恋愛含め、

何かにチャレンジするための大きな原動力であると思います。

でも時に人は傷ついたり、挫折したり、不運に見舞われたりして、

「どんなに頑張ってもできない事がある」「信じているだけでは何も変わらない」と、

自分の価値や可能性を信じられなくなる時があります。

「疑いようのない自信」を失った時、

人は何を信じていきていけばよいのでしょうか。

  

世界の中には、神や来世を信じている人々が一定数います。

私はそういった人々をよく理解しているわけではありませんが、

ただ一ついえるのは、彼らは宗教や信仰を通して、

自分の存在や行動を「信じる事ができる」という事です。

その点で、彼らは強く、「絶対的な自信」を持ちうるといえます。

新興宗教にハマる人がいるのも、彼らが、

「自分を大丈夫だと信じさせてくれて心に平和をもたらしてくれる何か」

を欲しているからかもしれません。 

 

宗教の話を引き合いに出しましたが、私はその話をしたかったわけではなく、

結局人は、「自分を大丈夫だと信じさせてくれて、心に平和をもたらしてくれる何か」

を常に求めていて、現代社会において私たちはその「何か」を、

学歴やステータス、外見の美しさ、などといった社会的に認められる価値、

そして人間関係の中に見出しているのではないでしょうか。

 

子どものうちは簡単ですよね。

周りの大人がいつも自分を信じさせてくれる。安心させてくれる。

先生は「努力は必ず報われる」と言うし、

お爺ちゃんお婆ちゃんは「あなたは世界で一番可愛いね」と言う。

でも大人になるにつれて、現実を知るし、

無条件で安心させてくれる環境も少なくなっていく。

だからこそ、「社会で求められる自分」や「誰かに愛されている自分」でいる事が、

「君は十分だ」「お前には能力がある」「あなたは可愛いよ」と、

昔、お父さんお母さんや周りの大人が言ってくれたように、

自分を信じさせてくれる、安心させてくれる要因になるのではないのでしょうか。

 

もちろん、社会的に認められたり、誰かに愛される幸せや安心感を求めるのは、

ある意味、当然のことであるはず。だって人間だから(笑)

けれど、自分に価値がある → 社会的に認められる ではなく、

    社会的に認められる → 自分に価値がある となってはいないでしょうか。

 

社会的なステータスがあるから自分は幸せだ・・・

愛してくれる人がいるから自分は幸せだ・・・

 

と、自分の価値を証明してくれる何かを、周りに求めてはいないでしょうか。 

 

あなたは今、自分で自分を信じられますか?

自分が全てを失ったとしても、自分には生きる価値があると言えますか?

 

要するに、

自分で自分を信じられないから、相手に自分の価値を証明してもらおうとする恋愛

は、いかに苦しいかという事。

可愛いって信じたい、愛されるって信じたい、価値があるって信じたい、

モテるって信じたい、安心できるって信じたい・・・という思いが、

イケメンの彼氏が欲しい、愛しるよって毎日言ってくれる彼氏が欲しい、

連絡がまめな彼氏が欲しい、お金持ちの彼氏が欲しい・・・という条件を生み出す。

もちろん、こういう条件を持つことは必要不可欠です。

ただ、それはあなたの幸せを満たす条件の一部分にすぎないのであって、

あなたの価値を定義するものではありません。

あなたの存在価値を証明してもらうための恋愛になると、

超ーーーーーーーーーー、不幸せになります。(笑)

 

なぜなら、自分を証明してくれる何かを失いたくないから執着し、

相手が自分の価値を証明してくれないと不安になる。

私も少し前までそうでした。 

自分は十分可愛いと思いたいから、モテたいしイケメンな彼氏が欲しい。

自分の存在価値を信じたいから、「大丈夫だよ」「好きだよ」っていって欲しい。

でも悲しいかな、気づいた事が一つ。

「誰も私の価値を証明してはくれない。」

そう、誰も助けてはくれないんですよね。

いや実際、「そのままで大丈夫だよ!」って言ってくれた人がいました。

けれど、言われた時は心が癒えても根本的な解決にはならなかった。

なぜなら、自分が一番、そのままの自分で大丈夫だと思っていなかったから。

そして、自分が一番、自分でいることに不幸・不満足を感じていたから。

結局、相手から一方的に貰うばかりで、自分はただ不安を巻き散らすような、

そんな依存的な関係は、長続きするわけもなく散々な結果で終わりました。(笑)

 

他人は自分の価値を100%証明することはできません。

だから、自分で自分の価値を信じている必要があります。

逆に言えば、あなたは自分の価値を自分で定義することができます。

社会的なステータスは、確かにあなたの努力や実力を反映しているはずだし、

恋愛関係も、確かにあなたの魅力を証明する理由になり得ます。

しかし、それらがなくとも自分には価値があると信じられた時、

つまり自分で自分を安心させ、幸せにできた時、

真の意味で恋愛が「幸せ」なものになるんだと思います。

 

もう私は、「頑張れば何でもできる」「私はきっと愛される」と、

無条件で思う事はできないと思います。

頑張っても報われない時もあるし、

苦手な事もあれば、できない事もたくさんある。

好きな人に絶対好きになってもらえるわけではないし、

関係がずっと上手くいくとは限らない。

 そういう「不幸せ」を受け入れ、

それでもなお、自分の価値を信じ、可能性を信じる。

だってもう、自分以外に絶対的に自分を信じさせてくれるものなんて無いから。

自分がそう信じなければ、永遠に周りの何かに執着し、依存する。

そして、その何かが手に入らなかった時、失った時、期待に沿わなかった時、

自分の価値を否定されたような気がしてとても苦しくなる。

 

自分が自分を一番信じられていること。

恋愛が自分のマインドや価値に影響を与えていることを感じながらも、

それだけで自分の価値が定義されるわけではないと理解していること。

そして何より、今、この瞬間の自分が、

相手を幸せにできる可能性があると思えること。

こういう恋愛は、必ずしも心が躍るような楽しいものではないかもしれません。

でも、自分のためだけでなく、お互いのために恋愛をし、

お互いが「幸せ」であるために。

こういうマインドでいたい。最近の恋愛を通してふと思った事でした。

 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

沢木耕太郎からカミュを知る。〜「ペスト」抗えない不条理・人間としての正とは〜

今まで読んだ本の中で一番心に残っているものは?

と聞かれて真っ先に思い浮かぶのが「日本人が知らない世界の歩き方」、

そして「深夜特急」。

  

 

↓この記事にも書いてます

girla.hatenablog.jp

 

 

深夜特急」と出会ってから、私は沢木さんのファン、

(というと知識の薄さゆえにファンの方々に失礼かもしれないですが)、

それでも普段一人の作家にあまり肩入れしない私にとっては、

好きな作家と断言できる方の一人です。

 

そんな沢木さんが経済学部出身である事は、

同じく経済学部に所属する私に非常に大きな共通点であり、加えて、

経済学部にも関わらずアルベール・カミュについての考察を卒業論文として提出した、

となれば、卒業論文制作真っ只中の私が沢木さんの卒論に興味を持つのは、

もはや当然といえば当然なわけで。

なぜカミュ卒業論文の題材に選んだのか・・・

どのようにして書き得たのか・・・

いやもはや、卒業論文を抜きにしても大学時代の沢木さんを

そこまで惹きつけたカミュという人物を知ってみたいと思った。

というわけで、カミュという作家単体としては

私の人生に交じり得ないような存在だったわけですが、

沢木さんのおかげでカミュという偉大な作家を読む機会と巡りあえました。

題名には仰々しくカミュを知るなんて書きましたが、

感想として殴り書きしたものを投稿させていただきます、

メモ程度ではありますがご容赦ください。

 

 

 

人間が抗えない何かに直面した事のある人間は強い。

それをきっと「不条理」を経験した人間と呼ぶのだろう。

人は毎日刻一刻と死に向かっているし、愛する者は近寄ってきては又去って行くし、

昨日正だった事が今日は悪になる。その事実は何人も避けられず、

そして避けられないという事を理解していなければならない。

その点において人類は皆、

今この瞬間においても"ペスト"の恐怖に晒されているのかもしれない。

ペストの感染によって私達が命の危険に晒されるのでは無い。

ペストの流行によって私達が人間の無力であるように思われるのでは無い。

私達は元来"ペスト"の恐怖と隣り合って生きていて、それにも関わらず、

私達はあたかも明日が必ず来ると信じて疑わずに生きている。

朝目が覚めれば昨日とほぼ変わらない姿の自分がいる。

それは、そう信じているというよりも、

疑問さえ抱かない真実であるかのように思われる。

けれど"ペスト"は確かにそこに存在している。

そして、何かを成し遂げるにはー例え誰かを救う為であってもー誰かを犠牲にしうる。

その点で誰でも"殺人者"になり得るのである。

それを知った上でもなお、自分の善のために行動できるのか。

例え悪者と呼ばれようとも、自分の行動は人々にとって社会にとって有益だと

(ちょっと言葉のニュアンスは違うけど)信じられるのか。

これが、誰も犠牲にしない代わりに誰も救わない事を選んだタルーと、

誰かが犠牲になったとしても誰かを救う事を選んだリウーの違いであろう。

タルーは聖人になることを望み、リウーは人間であることを望んだ。

(これは解説を読まなければ気づかなかった事だが)

爺さんはタルーの、グランはリウーの投影だという。

聖人の究極の理想像をひたすら習慣の中に生きる爺さんに

(これは仏教の思想にも近いものがあるのでは)、人間の究極の理想像を

個人的な生産活動に勤しむリウーに見出したという事であろうか。

しかし爺さんとグランに共通しうるのは、

不条理への一種の諦め、回避的姿勢である。

一方でタルーとリウーは互いに答えの出ない問いの中に苦しみながらも、

その不条理と向き合う方法を模索した。

最後に、カミュの「ペスト」では誰一人として完全なる悪人とは描かれていない、

それどころか、社会的に悪とされる行動をとった者でさえ、

どうすれば赦しを与える事ができるのか、という視点で語られるのである。

誰一人として完全悪という人間はいない。

それは、正が悪になり悪が正になる無常さ、価値基準の無限性、

人間の持つ共感力の強さ、など何点かの理由を付けて考える事ができるが・・・

結局、何かが常に、絶対的に正しく、何かが間違っている事は無い。

正誤善悪損得よりも何よりも、誠実・正直である事(タルーより)、

人として心が動かされる事を大事にする事(リウーより)、

それが人を動かし社会を動かし世界をより良い方向へ導くのだ、という事を学ぶ。

人間としてどうあるべきか、という問いを立ててはいけないと自負しているが、

あえて立てるとするならば、万人を救うことはできない、

そして時には人間らしさを放棄する必要があると理解しながら、

人間的なリウーを目指さずにはいられない。 

不条理は、とても辛い。

しかし、不条理を受け入れられないと、自分をさらに辛くさせる。

不条理を受け入れた上で、自分が何に価値を見出すのか。

そして、そこにもやはり良し悪しは存在しない、と私は考える。

例えば、「ペスト」ではランべールという人物が、

集団内の規律や責任よりも個人的利益に基づいて行動しようとし、

私利私欲を優先することへの疑問が投げかけられる。

最終的にはそのような行動を回避するのだが、たとえそうしていたとしても、

マジョリティからは非難されたかもしれないが、

誰かにとっては、憧れの対象に、勇気の象徴に、実現しえなかった夢に、

なりうるのである。

そう、何事も誰かにとっては正でまた違う誰かにとっては悪なのである。

どう足掻いても全員にとって正である事は不可能なのである。

ついで程度に、ペストに対するキリスト教の伝統的思想と近代科学的思想の対比も、

時代背景を表していると感じた。浅はかではあるけれど。

 

とにかく、この一冊の中に幾つもの人間の真理が織り交ぜられていた。

そして人物の内面、それはただの感情の移ろいではなく思考と信条の変化、

をあまりに鮮明にイメージさせられた。そして何より、

今まで沢木耕太郎はこういった不条理を認識していても追求する人間ではない、

むしろその対極にいる人間だと思っていた。

けれどカミュを踏まえて深夜特急が書かれたと思うと、

それが尚更尊い?(うーんぴったりな言葉が思いつかない!語彙力!)気がしてくる。

あーこれから卒業論文だけれど、きっと書ける気がする。

そしてここのカフェの音楽が素敵だなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

不安・焦り・無力感、そして「今」を生きる事。

 f:id:girla:20201105010724j:plain

 

 

私の毎日の鬱々とした感情を説明するには、

もっと複雑な単語が必要だと思ったけれど、

分解していくとこの3語で完結したりする、

「不安と焦りと無力感」

毎朝起きて3秒後に、脳が物凄い速さで動き始める。

それは好スタートというよりむしろ空エンジンに近くて、

考えなくてもいいはずの不安が言葉になって一気に脳内を巡りだす。

 

昼間の元気な状態の時は、何か不安な事が浮かんできたとしても、

「それは今考える事じゃないな」とか「こう対処したら大丈夫」とか、

自分で自分の思考を修正することができる。

 

けれど寝起きは、辛い。

起き掛けで「何かボケろよ!」と言われても、

頭が働かなくて上手い返しが思いつかないのと同じように、

(できる方いたら尊敬です(笑))、

朝は感情ベースの思考が暴走しても、論理でそれを止められない。

結果その「不安」という思考に飲み込まれてしまうこともある。

「焦り」も「無力感」も同じ。

 

よく知り合いには、

一体わたしは何に不安を感じて、何に焦り、

何をもって無力感に苛まれているのか、と不思議がられる。

もちろん人間である以上、誰しもが不安や悩みの種ぐらいあるのは承知の上で、

それでも皆んな、自分なりに踏ん切りをつけて社会を生きている。

そして私もそうやって生きていけそうに見えるらしい。

 

けれど実際のところ、そんなに割り切れた人間じゃなくて、

「普通」になれない自分、と、”普通”である自分

との間で右往左往して、考えても結論が出せないまま毎日鬱々としている。

  

私は「普通」ではない、と思う。

今までの自分の性格や行動だったり、勉強・バイト・恋愛・・・等々の

体験から、自らの視点で分析させていただくと、「普通じゃない」と思う。

もっとかいつまんで言うと、社会に適応できていない。

記憶力があやしいと感じるのは日常茶飯事だし、

バイトでのミスり方は異常を通り越してもはや壮大だし、

人との関わりは安心感を得られるよりも

不安になる事のほうが圧倒的に多いから、

できる限り人付き合いはしたくないと思ってしまう。

大学2年ぐらいまでは何とか溶け込んでいたけれど、

今はその頑張りに疲れてしまった。

 

その一方で、”普通”でしかないとも思う。

「普通」じゃない人の中には、

何らかの突出した才能を持っている、いわゆる「天才」と呼ばれる人達がいる。

だから、「もしかしたら自分にも何かあるのでないか?」

と、わずかばかりの希望を抱いた時期もあった。恥ずかしながら。

けれど実際、今のところ自分自身に秀でた才能のようなものは見当たらなくて、

つまり自分はただの"普通"だと気づいてしまって、

それ自体、悲しいというか残念ではある。

ただそれ以上に苦しいのが、

勉強、運動、料理、音楽そして文章を書く時も、何をしていても、

「お前の能力は"普通"以外の何物でもない、お前より才能のある奴はたくさんいる」

という意識が何かもやっとした感覚とともに常に付きまとってきて、

何に対してのやる気も失くさせること。本当に万事において。

ブログを書く事も楽しいけれど、

「題材を与えられて書くのは正直苦手だし、特に文学に精通しているわけでもなく、

 論理的な展開も感情的な描写もできたわけでも無い自分が、

「文章を書けます」なんて言えたもんじゃないな・・・」と考える。

そしてまた無力感に苛まれる。

 

きっと、大学4年という就職目前のタイミングも相まって、

仕事とか人生とか重く複雑な事柄について考え続けるうちに、

今まで抱いてきたネガティブな自己イメージが表出してしまったんだと思う。

 「お前が本当にやりたいのはそっちじゃないはず」

「いや、やりたい事より向いてる事を選ぶべき」

「でも何が向いてるのか分からない」

「結局人生一度きりだからやりたい事をやったほうがいい!」

「いや、流れのままに生きるのも大事」

「でも楽しくなかったら意味ないよね」

「でも楽しいだけじゃダメ。現実はそう甘くないよ」

「でも・・・」

こうやって自分の可能性を信じられないがゆえに、何も決めきれず、

漠然とした不安と焦りと無力感だけが募っていく。

 

でも、結局人生に正解なんてなくて、

自分が選んだ道の中で幸せを感じられた瞬間、

その選択が正解のように思われるんだよね。きっと。

そして、何年か後に過去の自分を振り返った時には、

「将来の事ばかり考えてないで、もっと楽しんでおけば良かった」って思うんだよね。

きっと。だから究極的には、

”今”を幸せに生きる事が、過去の自分も将来の自分も、幸せにする。

 

よくヨガやマインドフルネスの思想の中で、

「今に集中する。今に意識を置く。」といった言葉がでてくると思います。

それは、「今さえ良ければいい。今の事だけ考えればいい。」

といった短絡的な思考ではなくて、過去の自分を受け入れ、

将来の自分を心配すればこそ、「今」に集中することが大事である、

むしろ「今」に集中することしか私達にできることはない、

という意味が含まれているんだと、私は思っています。

 

もちろん、だからといって不安がゼロになるかといったらそうではなくて、

むしろ不安の理由が仕事、恋愛、人生、病気、生死、など大きくなればなるほど、

その不安からは逃れられないと知り、

その上で自分が自分に何ができるかと考えた時に、

「今」を生きる事しかできないんだ、と、本質的に理解しておくことが、

これから先の人生できっと何度となく悩むであろう自分にとって、

とても重要なんだと思います。

 

そして、今この文章を書いていてもう一つ感じることが、

2年前に同じ文章を書こうとしても、きっと書けなかっただろうということ。

あの時は、不安とは何で一体どこから生まれるのか、

人生とは何で、自分とは何なのか、そんな事を考えもしなかった。

嫌な事があると他人を責めて怒り、自分を責めてはただ泣いて、

問題から目を逸らしていたのかもしれない。

 鬱々と悩んだ毎日のせいで様々なものを失ったけれど、

鬱々と悩んだ毎日のおかげで様々なものを得て、学んだ。

 

結論、問題が根本的に解決されたわけではない。

今でも自分を疑ってしまうし、決断も下せる力量もない。

明日も目が覚めたら不安が待っている、そんな毎日の繰り返しだと思うと、

まるで牢屋に入れられたような気分だな、とさえ感じてしまう。

けれど、そんな毎日が存在する意味はちゃんとあって、

今まで過ごして来た不安な日々も、これから待ち受けている将来も、

全てを包括して人生を捉えるならば、一番大事なのは結局、

「今」を生きる事に他ならない、そう思います。

 

 

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へ

【実際、留学で英語は上達するのか?】英語にまつわる4つの質問。

f:id:girla:20201015164121j:plain



こんにちは。

今回のトピックはずばり「英語」についてです。

帰国後、留学について様々な質問をされるわけですが、

その中でも特に聞かれるのが、

英語話せるようになった?

という質問。

よく聞かれる質問ナンバーワンといっても過言ではないです(笑)

まあお金も時間もかけて英語を学ぶっていう選択をしたわけだから、

どの程度話せるようになるのか、そりゃあ気になりますよね。

でも私自身この質問をされると、

「どのレベルをもって話せるって言っていいんだろう?^^;」

ってちょっと怖気づいちゃったりします。

(本当はこれ良くないんですけどね!レベルなんて関係なく、

コミュニケーションがある程度取れたら"話せる!"って胸張ればいいんですけど。)

 

 少し話は逸れましたが今回は、

「実際どのぐらい英語が話せるようになったのか?」 

「どうやって学習した?」

 「帰国後も英語力をキープしてる?」

「英語を話す事のメリットは?」

 などなど、英語学習に関するトピックについて書いていきたいと思います!

 

 

1. 留学前後でどのぐらい英語力が伸びたのか?

まず、一口に「英語力」っていっても色々な捉え方があり・・・

細かく挙げていくととキリがないのですが。

とりあえず今回は、 

TOEICの点数 ②コミュニケーション能力 ③ライティング能力

の3項目に絞りました。

  

TOEICの点数

一番シンプルで分かりやすい指標がこれです。点数がバチっと出るので。

結果的に言うと、TOEICの点数は伸びました。どれくらい伸びたのかというと・・・

留学前(2018年5月) TOEFL ITP 560 (≒TOEIC 750)-→ 留学後(2019年12月) TOEIC 830

・・・TOEIC同士で比較しろよ!って思いますよね。スミマセン。

留学前に受けたのがTOEFLであったため、正確な比較はできないのですが、

換算表を参考にしてTOEICスコアにしました。

およそ80点UPしたわけですが、

私自身これがどの程度の成長なのかよく分かっていません(笑)

というのも、特にTOEICの点数UPを目標にして留学していたわけではなかったので、

点数を何点伸ばす!とあまり意識していませんでした。

(留学後のTOEICもほぼノー勉強で受けました。)

ちなみに私の周りの留学経験者の中には、

TOEIC800点台後半~900点台の人もざらにいるので、

点数自体がずば抜けて高くなったかというと、そうではないと思います。

留学経験ナシで900点以上取る方も全然珍しくないですし。

なので結論として、

”留学中に英語を勉強していく中で、

TOEICで測られるような英語力(リスニング、文法、速読...etc)も自然に身に付く。"

という事は言えると思います。

 

②コミュニケーション能力

留学先で一番伸びしろがあるのが、

この"コミュニケーション能力/会話力"ではないでしょうか。

(「英語話せるようになった?」と質問してくる人もここを聞きたいはず(笑))

私自身も、ここが一番成長したんじゃないかなって思います。

ちなみに、留学当初はレストランでの注文方法すら分からず(笑)、

知識としての英語は人並み程度にあったと自負していますが、

会話に関してはほぼゼロからのスタートだったんですね。

そこから、ネイティブの話す英語をとにかく聞いて、メモして、真似して、

直して、また聞いて・・・・の繰り返し。

そして最終的には、 街で会った英語ネイティブと日常会話ができる、

ぐらいには成長しました。(伝わるかな?)

いまだにネイティブスピーカーがグループで弾丸トークを始めたり、

分からない単語を連発されると瞬く間についていけなくなるので、

コミュニケーションに不安が残る面もあります。

ただ、大体の場面でリラックスして、

何より楽しんで会話できるようになったのは大きいと思っています。

 

③ライティング能力

意識しないと中々上達しないのが、ライティングではないでしょうか。

というのも会話では、

簡単な単語だけでもOK、

文法もちょっとぐらいおかしくてもOK!だったのが、

文章となると、語彙・文法・文章構成など細かな部分にも注意を払わなければならず、

また知識も必要になってくると思います。

ただ、留学して授業を受けるのであれば、

否が応でもこのスキルは身につくと思います(笑)

留学前は、英語で文章を書くなんてレポート用紙1枚が限界だと思っていました。

しかし、留学先では5枚、6枚、7枚...なんてレポートをざらに出され、

出されたからには書くしか無いんですよね。

で、何枚か書いてみると、書き方のコツが身についてくるんですね。

例えば、この言い回しって自然かな?って思ったら、

実際にGoogleでその言い回しを検索にかけて、

記事やウェブサイトで使われているかをチェックしてみたり、

Google Scholar等で同じ分野の論文を読んで頻出単語をメモして見たり・・・など。

(当たり前の事かもしれませんが;;)

その学習方法は今でも実践していて、かなり役立っていると感じています。

 

2. 英語学習で大事なことは? 

私が英語学習で大切だと感じた点を書いていきたいと思うのですが・・・

具体的・効率的なポイントは色々な方が書いてくださっていると思うので、

あくまでも私個人が感じた事を。

私の中ではやはり、

自分が英語で好きになれるものを見つける

に尽きるかな、と思います。

人との関わりが好きな人はとことん会話を通して学んでいたし、

音楽が好きな人、ドラマが好きな人、社会問題に興味がある人・・・など、

自分がもっと知りたい!話したい!と思える何かがある事が、

英語上達には大事なのかなーと身に染みて感じます。

だから「彼氏彼女ができると英語が上手くなる」んですよね(笑)

 私の場合は海外の料理やファッション、メイクが好きだったので、

インスタグラムやYouTubeでそういったアカウントをフォローして、

英語の投稿を観たり読んだりを自然にしていました。

「やらなきゃいけない」といった強制感は全くなく、

むしろ大学の勉強そっちのけで見ていた時もあったぐらい没頭してました(笑)

英語である事を忘れるぐらいハマれる何か、(人、趣味...etc )

が見つかれば、英語の習得は速くなるはずです。

 

また、「失敗を気にせず安心して話せる環境」も大切だと感じています。

 私の場合は、

一番初めに友達になったのが他のアジア圏からの留学生達だったのですが、

これが結果的に私の英会話力を伸ばすキッカケになったと思っています。

というのも、他のアジア圏の学生達も、

みんながみんな100%正しい英語を話しているわけではないんですよね。

けれど、とにかくみんな話します、しかも自信を持って(笑)

その環境の中に身を置いているうちに、

「間違いなんて誰にでもある事」「少しおかしくても伝える方が大事」

「とにかく話そう!分からなかったら聞こう!」

といったスタンスが身についていきました。

 

3. 帰国後の英語力について

帰国後も英語力をキープできているのか・・・という問いについては、 

「半分YESで半分NO」だと思います(笑)

幸いにも、今現在わたしが住んでいるシェアハウスに外国人がいたり、

ゼミの教科書が英語だったり、と比較的環境には恵まれているので、

コンスタントに英語を使う機会はあります、が、 

使う時間が減った分、スムーズに言葉が出てこなかったり、

「あの単語何だっけ・・・」という現象がよく起こるのも事実です(笑)

もちろん逆もしかりで、

英語を使う時間を増やすと、段々感覚が戻ってくるんですけどね。

なので、英語力の向上もさることながら、

キープするのは意外と難しいかもしれないです。

 

4. 英語を学ぶことのメリット

ここまで、"英語" について長々と書いてきましたが、

どうしてそんなに頑張って英語を勉強するのか?

わざわざ英語を学ぶメリットってある?

とシンプルに疑問に思う方も少なくないかな、と思います。

(私の友人もそうでした(笑))

私が声を大にして言いたいのは、

英語ほど多くのアイデアが知れて、

世界中の人と繋がれる言語は無い。 という事です。

日本語では1万件しか出てこない検索結果が英語だと10万件出てきたり、

日本語で調べると日本人が発信したものしか基本的に出てきませんが、

英語ではありとあらゆる人・地域の考えが知れたり。

あと、日本では〇が正しいと考えられていたものが海外では×が正しかった、

みたいな事もよくあるので、

英語で調べられると客観的視点が身に付くかなと思います。

世界には、日本とは全く異なる価値観が多数存在していて、

それを知ることで改めて自分を見つめ直すことができる、

その結果として、より多くの考えに共感できるようになる、

それが「価値観が広がる」という事だと私は考えています。

だとしたら、英語を学んで使う事自体が、

自分の人間的な成長に大きな影響を与えているのは事実で、

それこそが英語を学ぶメリットなのかな、と私は思います。

 

 

以上長くはなりましたが、今日は"英語"について書いてきました。 

アドバイスというより私の経験談をつらつら書く、

感想文になってしまった気がしていますが・・・^^;

まあそれがブログ!という事でご容赦ください(笑)

 

 

では、皆様よい一日を^^

 

 

 

 

にほんブログ村 大学生日記ブログ 留学生へ